2013年6月4日火曜日

年金小説  『誕生日まで待って』     (一)

(一)
目黒和郎と節子とが知り合ったのは、三十年前に勤務していた和食料理店であった。
眼がぱっちりした節子は、愛嬌があり、よく気がつき、顧客の評判もよかった。
そのためか来店客の中には結婚の申し出るものも何人かいたが、彼女は異性への関心は薄かった。

何故ならば、彼女は闘病中の母親を抱えており、毎日毎日が仕事と看病に追われておりそれどころでなかったからである。

和郎も彼女に思いを寄せていたが家庭の事情を承知していたので、交際したいということは言いだせなかった。
暮れが押し迫った小雪がちらつく日であった。その日は予約がいっぱい入っており、一年のうちでも最も忙しい日であった。店内は猫の手も借りたいぐらい多忙な状況にあったが、節子の様子がいつもと違っていた。
彼女は、ほほが落ち込み、生気が見られず、いつもの明るくてきびきびした行動が見られなかった。

それに気づいた和郎は、彼女に声をかけた。
彼女は、最初はおし黙っていたが、母親の病状がすぐれず、看病のため一睡もしていないことを告白した。
そのことを聞いた和郎は、節子に当分の間、休んで看病に専念するよう勧め、休暇を与えることをしぶる店主には節子が休んで間の人員の手配をすることを条件に了承をとった。
そのことがあってから、節子と親しく付き合うようになり、母親が亡くなった翌年の十一月に結婚した。

しかしながら、私と結婚したことが彼女にとって本当に幸せな日々であったのか自問自答する状況が続いてしまった。
何故なら、結婚してから亡くなるまで間、ずっと苦労のかけ離しの状況が続いたからだ。

特に、和郎が脳梗塞を発症して倒れ、右半身が不自由となり、働くことができなくなってからは、か細い彼女の背に全ての経済的、精神的両面の負担を掛けることになってしまったことだ。
それでも持ち前の明るい性格から、彼女は前向きに行動し、いやな顔をひとつ見せることはなかった。




(続く)

年金小説 『お誕生日まで待って』    (二)

(二)
二人の結婚人生をひもとくと、最初の苦難が節子に訪れたのは、思い起こせば今から十六年前のことであった。
和郎と彼女が結婚してから十四年を経過したときであった。

結婚した当初は、共働きであったので生活は困らなかったが子供が生まれ和食料理店を退職したときから生活環境が大きく変わった。
勤務していたお店は、小規模で従業員も少なかったため、和郎への仕事の依存度が高く、朝早くから材料仕入れや料理の仕込みを行い、夜遅くまで働かなければならなかった。

おまけにお店が年中無休であったため、休みをほとんどとれず、家族とゆっくりと過ごす時間は皆無の状況が続いた。
勤務先からもらう給与はもともと低い額であったが、共働きのときには経済的に問題はなかった。しかし、一人で働くことになってから窮乏するようになった。

低い収入は家族が生活していくには大変厳しく、そのうえ、勤務先に社会保険制度がなかったため、国民健康保険料や国民年金保険料を直接納付しなければならないが、経済的に苦しいため保険料が滞りがちであった。
国民健康保険料の滞納状態が続いたときなどは、保険証を役所から取り上げられたりすることがあった。

そのため、熱を出すなどで病院にかかるときは、医療費を全額自己負担しなければならなかった。
自己負担した医療費は、後日市役所に申請することで返還されたが、医療費を立て替えることは大変な負担であった。
金銭的に余裕がないため、子供にほしいものを買ってあげられず、遊びにも連れて行くこともできず、生活に追われる日々が続いた。

 このような経済的な窮乏に堪えかねて節子は、
「お願いだから社会保険のあるところに勤められないの・・・」と言い寄ることがしばしばあった。
ただ、和郎は、独立して店をもつという夢があったため、薄給であったが辛抱して十四年間働いてきた。

しかし、収入が少ないため蓄えがほとんどできず、このままでいくと一生雇われの身に陥いるおそれがあった。
独立することなんて夢の中の夢のことであった。
その上、仕事の忙しさと経済的な余裕がないことから、家族旅行をしたり、どこかに遊びに連れていくこともできず、妻や子供たちにいつもさびしい思いをさせていた。

それでも、家族の誕生パーティだけは、結婚して以来ずっと欠かさず行なってきた。
誕生日のときは、ファミリーレストランで食事をし、プレゼント交換を行い、その後、カラオケ店で騒ぐのが恒例としていた。
それが家族にとっては唯一の楽しみであった。

和郎が三十九歳の誕生日を迎えた日のことであった。
食事とカラオケを楽しんで家族が桜並木を歩いて自宅に戻る途中にずっと前から考えていたことを和郎は打ち明けた。
「節子がいうようにこのまま働いても蓄えもほとんど出来ず、これから蓄えをしても年齢的にも独立することは無理なようだし、子供たちのためにも思い切って店を退職するよ」と真剣な顔で打ち明けた。満開に咲き誇った桜の下でその話を聞いた節子は不安そうに、「嬉しいけれど、退職して直ぐに働くところがあるかしら」と訴えかけた。

「うん、その点は心配しないで、退職を申し出る前に再就職先をしっかり見つけてからにするから……」と諭すように言った。
しかし、いざ就職活動をして見ると、四十歳近い男が働くようなところは半年間かけても見つけられなかった。

暮れが押し迫る寒い日、朝刊を見ていた彼女が、
「お父さん、外資系の生命保険会社が外務員を募集しているみたいよ。条件は良さそうだし応募してみたらどうかしら」と明るい表情で言った。
「そうだな。収入も働き次第でそこそこになるようだし、社会保険も完備しているし、この際応募して見ようかな」

和郎は、正月明けに外資系生命保険会社に応募した。
それから一週間ほどして電話がかかってきて、『採用させていただきます。ぜひとも当社でがんばってください』と通知された。
こうして和郎は、生命保険会社に転職したが、慣れない営業活動であるのにもかかわらず、家族を養っていかなければという一心で一生懸命がんばった。
その結果、初年度の勤務としては抜群の業務成績を収めることができた。

六月末に初めてボーナスが支給されたが予想外に大きな金額であった。
転職してからは休日もきっちり取ることができ、ボーナスも多く出たこともあり、結婚以来始めての家族旅行をした。
旅行から帰ってきた和郎が郵便受けを開けると、社会保険事務所に再交付を依頼していた国民年金保険料の納付書が届いていた。
滞納している保険料について、社会保険事務所から何度も督促状が届き、同封された説明文書には、『このまま保険料を納付しないと老齢年金が貰えなくなるおそれがあります』とあった。
 その文章を読んだ和郎は、社会保険事務所に納付書の再交付を依頼していたのだ。

その納付書を和子に手渡しながら、
「収入も何とか安定してきたし、就職前に滞納していた国民年金保険料の一年半分はこの際納付しておこう。納付すれば将来老齢年金も貰えそうだしね。節子、忙しいところ悪いけど、明日銀行に出向いて保険料を納めてきておくれ」
と言って、和郎は滞納分の現金を節子に託けた。
「分かったわ、明日銀行に出向いて納付してくるわ。まかしておいて」と明るくうなずいた。




(続く)

年金小説 『お誕生日まで待って』   (三)

(三)
そのことがあってから二週間後の早朝ことである。
朝食をとっていた和郎は、突然右半身がしびれて意識を喪失した。
傍にいた節子がその様子に気づき救急車を要請のため電話を架け、十分後に救急車が到着し救命救急病院に搬送された。

MRI検査等の結果、脳梗塞と診断されたが、医師の適切な処置により幸い命はとり止めた。
しかし、和郎の意識が目覚めたときには右側の上半身と下半身が不自由な身となり、右手はほとんど動かず、歩行も困難な状態となっていた。
「こんなことになったのは、私が無理に飲食店を辞めさせて慣れない職場で働かせたからだわ。私のせいだわ、ごめんなさい、ごめんなさい」と彼女は病室で自分を何度も責めるのであった。

入院してから六ヶ月目に病院でのリハビリテーションが終了した。
しかし、右上下肢の麻痺の改善はほとんど見られず、右腕はほとんど動かず、歩行も不自由で外出時は車椅子で移動する状態になった。
医師から、「症状固定しておりこれ以上の治療やリハビリテーションを続けても改善しない」と言われたため和郎は退院した。

退院時に病院のソーシャルワーカーから夫婦に対し、「右半身が不自由で、働けない状態ですので多分障害年金が貰えると思いますよ。社会保険事務所に行かれて相談されたらどうですか」とアドバイスをもらった。
その話を聞いたとき、今後の生活のことに不安をもっていた和郎にとって、福の神が舞い込んできたように思った。

彼女は、早速、JRの駅から歩いて五分のところにある社会保険事務所に喜び勇んで出向いた。しかし、それは彼女の期待を裏切るものであった。
窓口の相談員は、年金の加入納付記録をコンピューターから引き出してそれを見ながら節子に言ったのだ。

「目黒さん、残念ながら障害年金は貰えませんよ。何故なら、国民年金保険料の滞納が大変多く、法律で規定している保険料の納付状態には足りておりません。したがって、誠に残念ですが障害年金の受給の資格はありませんよ」との説明聞いた節子はガックリ肩を落として自宅に戻ってきた。

彼女は、もらえるとしたら月二十万円程度と聞いていたのに貰えないと判ったときの落胆振りは大きく、眼を覆うばかりで一週間寝込む状態であった。
 「障害年金が貰えなくなったのは私のせいだわ、ごめんなさい、ごめんなさい」と訳もなく顔を真っ赤にして彼女は嘆き悲しむのであった。

和郎は、肩を落としてしょんぼりしている彼女に対しやさしく、
「節子は何も悪くないよ、障害者になったのに支給しないという制度が悪いのだ」と何度もなだめた。しかし、節子にはずっと寝ていられるような余裕はなかった。

入院中の医療費の支払で蓄えも底をついており、おまけに由紀(十二歳)、美紀(九歳)、正郎(七歳)の三人の子供と肢体不自由な和郎を抱えて、生活をしていかなければないという切羽詰った状態であった。

和郎が倒れてしまい収入の路が途絶えて何とかしないと家族の生活が出来ないところまで節子は追い詰められた。しかし、世間はこの家族を見捨てることはしなかった。
まじめ一筋で生きてきた夫婦に救いの手を差しのべてくれたのだ。

それは、和郎の退職届を提出するため、節子が生命保険会社に出向いたときのことである。
面談した営業所長は、和郎が病気のため勤務できなくなったことをねぎらいながら彼女に次の提案をした。
「奥さん当社で働いてくれる適当な方を知りませんか。もし良かったら、ご主人の代わりに働いてみる気持ちはありませんか。外務員の空があるのでぜひとも奥さん働いてくださいよ」と促された。

彼女は、「今のお話は夫に相談した上でご連絡させていただきたいと思います。ご返事についてはしばらくお待ちくださいませんか」と言って帰ってきた。
小雪ちらつく中を興奮した表情で自宅に戻ってきた彼女は、所長からの申し出があったことを和郎に説明をし、「私、生保で働こうと思うの。いいでしょう。子供たちの世話であなたに迷惑をかけることになりますがお願い……」と懇願した。

それを聞いた和郎は節子の手を取り、「節子を働かせることになり本当に申し訳ない。苦労をかけることになるが子供たちのためにがんばってもらえないか」
それに対して彼女は満面の笑顔で、「ええ、あなたと子供達とのためにもがんばるわ」と和郎の手をきつく握り締めた。

彼女は、翌月より生命保険の営業社員として働くことになったが、時間的にも身体的にも大きな負担を強いることとなったのにかかわらず一言の愚痴もこぼさず生き生きと毎日勤めた。
右半身不自由の私と三人の子供の世話しながら、生活の糧を得るため夜遅くまで働いた。

三人の子供達はある程度の家庭のことは手伝ってくれたが、仕事をしながら家に帰れば諸々の家事をこなした。
近所つきあいから毎日の買い物や料理をこなし、その上、和郎の入浴の世話および通院や散歩時の付き添い、学校の行事の出席等の家事をこなした。
仕事から遅く戻って疲れているはずなのに、いやな顔はみせず、「遅くなってごめんね、十分に世話ができずごめんね……」といつもすまそうに和郎に言った。また、

「大事なお父ちゃんの世話は一生私が看るからね」とかわいいことを言ってくれた。
和郎は、「働きもんでこんなに出来た女房は、世界中さがしてもいない」といつも思っていた。
 また、職場での節子のがんばりはたいした者で、業務成績は営業所内ではいつもトップの位置を示していた。 

おかげで、収入面で困らない程度の生活が出来るようになり、三人の子供には経済的に不自由をさせない程度のことができるようになった。 
三人の子供を大学で教育を受けさせることもできた。

そして二年前に長女の由紀が職場結婚したときは、結婚資金のほとんどを節子が負担したのであった。
また、次女の美紀および長男の正郎のためにも結婚資金をがっちりと貯めることができた。
子供も成長し、次女は商事会社に勤務、長男も大学四回生となり手がかからなくなり、順風満帆でこれからは無理しないで老後の生活をしていけると思われた矢先に、節子のもとに突然不幸がおとずれたのだ。




(続く)

年金小説 『お誕生日まで待って』   (四)

(四)
それは昨年の春ことであった。
節子は半年ほど前から、胸に違和感があり、 微熱と貧血の状態が続き、その上、全身がだるくて、食欲がでない状態が続いていた。
ひそかに胃腸薬と鎮痛剤を薬局から購入して飲んでいたが、一向に改善が見られなかった。
そのような症状に気にはなっていたが、仕事と家事ともに忙しかったこともあり病院への受診は後回しになっていた。
そのような体調にはあったにもかかわらず、私には告げられず、また、家族の誰もがそのような状態にあることに全く気づかなかった。
節子の体調異常について判ったのは、去年の四月の中頃のことであった。
この度、次女の美紀の婚約が決まり、来年の春に挙式をすることにまったが、最後の家族旅行をゴールデンウィークにしょうと計画していた。
仕事から帰ってきた節子に旅行のことを話しかけたとき、「ごめん。この度の旅行はよそうと思うの……」と申し訳なさそうにつぶやいた。
和郎は、予想外の話に驚いてその訳をたずねた。
「折角、娘との旅行を楽しみにしていたのにどうしたの。何か都合がつかないことができたの」
彼女は、「ごめんなさい。半年ほど前から身体がだるい状態が続いているの、また、胸にも圧迫感があるのよ」と訴えた。
 和郎は、「それは大変だ、明日でも駅前のクリニックに診てもらったらどうか」
と私は安心させるよう明るく促した。
そこで、翌日、彼女は駅前にあるクリニックを受診したところ、乳がんの疑いと診断され、AB大学附属病院の紹介をされた。 
そこで、翌週の月曜日にAB大学附属病院で受診してCT検査や骨シンチグラフィ検査、血液検査などを受けたのであった。
三日目に検査結果が判り、和郎を同行して担当医師からの病状の説明を受けた。 
「残念ながら乳がんであることは間違いありません。症状はかなり進んでいます。既にリンパ、骨に転移していますので手術は難しい状態です。当面は、放射線、抗がん剤の投与の治療をしましょう」と告げられた。
翌週から入院して、放射線療法および抗がん剤治療を三ヶ月間続けたが 、ガンの縮小は見られなかった。 
その上、強い抗がん剤の副作用から吐き気が全身の倦怠感の状態が続き、身体のあちらこちらに痛みが見られるようになった。
八月の初めに主治医から和郎と節子に対し病状とこれからの治療方針についての説明があった。
 「放射線、抗がん剤治療を続けましたがガンの縮小は見られていません。このまま治療を続けても回復の見込みは非常に薄いです」と残念そうに述べた。
「先生、本当に直る見込みがないのですか。なんとかお願いします」と和郎は必死に懇願した。
「誠に残念ですか、根本的な治療法はなくなりました。このままだとあと四~六カ月程度と考えられます。旅行するとか何か好きなことを今のうちにされたらどうですか」と勧められた。
そのことは和郎夫婦には大変ショックなことであった。
怒りをぶちまけるところもなく、絶望感にさいなまれ、このような状況を受け入れることは夫婦にとって到底できないことであった。
このような事態に直面した彼女にとって心の整理をするのに大変な時間を要することとなった。それでも、現実を受け入れるしか方法がなかった。
彼女は、家族の暖かい見守りや親しい友人の励ましをもらっているうちに、死への恐怖心や心の不安感が鎮められ、少しずつ落ち着きを取り戻していった。
「好きなこと何でもしなさい」との医師の助言もあり、節子は元気なときに家族と一泊旅行をしたり、友人と美術館めぐりをしたり、昔から嗜んでいた川柳の句会に頻繁に顔を出したりした。
病院に入院することになってからも、身体だるくて、体重がどんどん落ちてきて疲れが出ていたが、節子は残された人生を楽しむように好きな本を読んだり、川柳を作ったり、友人との電話の会話を楽しんだ。
また、病院に入院中も家族の誕生会は特に楽しみにしていた。結婚して以来続けていた誕生会の日は、病院内のレストランで食事をし、たわいのない会話を楽しみ、プレゼント交換し、和気藹々の時間を過ごした。
 そして、子供達は余り永く生きられないことを知ってからそれぞれがすばらしいプレゼントを彼女にもたらした。
長女の由紀は、かわいい初孫の男児が十二月に誕生して彼女の喜こばせた。その喜びは尋常ではなかった。私の生まれ変わりだとはしゃいで、孫の名前を節子の『節』をとって節夫と命名する始末であった。
また、次女の美紀は、来年五月の結婚式の予定を繰上げて十二月の上旬に挙式を執り行い、晴れの花嫁姿を彼女にみせて安心させた。
長男の正郎は、彼女が勤めていた外資系生命保険会社に就職が決まり四月から社会人として働くことになり、 親としての責任は世間並みに果たせられたといって喜んだ。
節子は、永く生きられないと判ってからも、最後まで治療はあきらめず、治療効果があると聞いた療法は何でも試みた。
医師には、少しでも永く生きられる延命方法があれば試みてくれるよういつも懇願するのであった。
しかし、症状は眼に見えて悪化する一方であった。吐き気が続き、身体だるくて疲れやすくなり何も手につかない状態となった。体重も減少する一方で、食欲がなくなり、骨転移した箇所の痛みを訴えたり、歩行した時に痛みが酷くなると訴えた。
また、眠れないとよく訴え、ペイン・コントロール(疼痛管理)を医師が試みてもらったが完全に痛みはとれなかった。
それでも、何とか生きようとする気力は衰えていなかった。
そのような様子を見て子供達は、「かわいそうに、そこまで苦しい目にあわさなくても、なんとかしてあげて……」と泣きそうになりながら私に訴えた。
医師から余命六ヶ月程度と言われていたが彼女のがんばりもあり、宣告されてから八ヶ月経過し、桜の時期を迎えた。
和郎の誕生日は四月四日であったが、その日の病院内で恒例の誕生会を開いた。病室の窓から満開に咲き誇っているソメイヨシノが見えた。
由紀、美紀の夫婦と孫の節夫、それから長男がそれぞれ病室に食事を持ち寄って誕生会を開いた。
その日の節子は、病人とは思えぬぐらい明るく元気にふるまった。
 病人とは思えぬぐらい食べて、茶目っけのある会話で皆を笑わせ、いつの間にかプレゼントを用意し、病室で歌を全員で合唱し、和気藹々の時間を過ごしたのであった。 
その翌日、彼女から和郎に大きな封筒を手渡された。
「この封筒は私が死んでから開封してね」と明るい顔して手渡した。
和郎も明るい声で、「分かったよ」と一言だけ応えた。
医師からは、「寿命はあまり永く残っていません」と宣告されていたがその気配をみせないように振舞った。
それから二週間して節子は静かに息を引き取った。家族にとってかけがえのない節子がこの世の中から消えてしまったのだ。
その日は、病院内にある庭のソメイヨシノは散ってしまい辺り一面をピンクで埋め尽くされていた。




(続く)

年金小説 『お誕生日まで待って』    (五)

(五)
初七日の法要の後、和郎は彼女から手渡されていた封筒 を取り出した。
封筒の表には、『ありがとう愛しの和郎さまへ  節子より』と記載され、『この封筒は、私が亡くなって初七日の日に開けてください』と赤字で表示されたものである。
和郎は、節子と約束した通り、初七日の法要後に開封した。
その封筒の中には、「年金手続きの書類一式と預貯金通帳及び生命保険の証書が入った封筒および封書」が同封されていた。
 その封書を開封するとそこには十枚余りの手紙が入っていた。
『今、病室内でこの手紙をしたためています。 この手紙を貴方が読まれるときには私はこの世からお別れしていると思います。
私は、初めて病気は治らないと言われ、寿命は半年余りと医師から宣告されたときは大変なショックなことでした。
怒りをぶちまけるとろもなく、絶望感にさいなまれ、なぜ自分が死なねばならないのか、なぜ私だけがこのような目に遭うのかと、もって行き場もなく毎日泣いていたとき、それをささえてくれたのは、和郎さんと子供たちです。泥沼にはまってもがいている私に手を差し伸べてくれて本当にありがたかったです。
永く生きられない私に明るい希望を抱かしてくれたのです。和郎さんは車椅子生活から松葉杖でなんとか歩けるようになりました。
長女の由紀からは、かわいい孫の節夫のプレゼント。次女の美紀は私のため結婚式を繰上げて花嫁衣裳を見せてくれました。
長男の正郎は、私が勤めていた外資系生命保険会社に就職が決まりました。私がいなくなってもそれぞれの人生をしっかり歩んで行けることを確信できて安心しています。
私は今、本当に幸せです。こんなすばらしい家族にめぐまれて……。
何も心配する事がなくなり嬉しいです。
ただ残念なのは、和郎さんの生活を私が一生面倒を見ると十三年前に約束していたのにそれが果たせないことです。
余命半年と宣告されたとき、あなたとの約束を果たすことができないことが判り本当に泣きました。
私が死んでいくことは宿命ですから仕方がないことで諦めもつきますが、和郎さんの世話がこれから出来なくなるということは耐えられないことです。
私のこの宿命を恨みました。和郎さんを残して死んでいくなんて、神様はなんと非常な仕打ちをするのかと。私が一番悔いているのは十三年前に取り返しがつかないミスを犯してしまったことです。それは、あなたの障害厚生年金の請求のことです。
あなたが脳梗塞で倒れた半年後に、病院のソーシャルワーカーが、我々夫婦に対し、「右半身が不自由で、働けない状態ですので多分障害年金が貰えると思いますよ。社会保険事務所に行かれたどうですか」と言われたときのことです。
その話を聞いて、私は、早速喜び勇んで社会保険事務所に出向きました。
しかし、結果は期待を裏切るものでした。窓口の相談員は年金の加入納付記録をコンピューターから引き出し、それを見ながら、「残念ながら、障害年金は請求できません。何故なら、保険料の滞納が大変多く、法律で規定している納付状態でありませんから」と説明を受けました。
私は、担当者の説明では十分理解できないので詳しく尋ねました。
そこで担当者は、障害年金の受給資格についての説明がありました。
それによると、「障害厚生年金は、厚生年金保険加入中に初診日があること。そして初診日時点において保険料納付要件を満たし、なお、かつ障害年金に該当する状態になった方が請求できる仕組みです」との説明をいただきました。
担当者の説明から「厚生年金保険加入中に初診日があることという条件と障害年金に該当する状態になっているという条件は満たしていることが判りました。
ただ、保険料納付要件を満たしているかどうかが問題になりました。担当者は、「保険料納付要件とは、初診日の前日までに納付した保険料期間と免除期間の実績で判断します。具体的には、初診日の前々月以前の1年間に未納の期間がないときに納付要件を満たすと規定されています」との説明でした。
そして、メモ用紙に具体的に記入して説明を受けました。
「ご主人の場合、六月二十八日が初診日ですから、六月二十八日の前日までに保険料納付や免除したもので判断します。初診日の前々月は四月ですから、その四月以前の一年間に未納がないときに受給資格ができることになります。ご主人の場合、四月以前の一年間すなわち前年の五月から当年の四月までの期間で判断することになりますが厚生年金保険料は、生命保険会社に勤務した本年の一月から四月までの四ヶ月間納付しています。しかし、その前年の五月から一二月までの間は、国民年金に加入していますがその間は未納扱いとなります。したがって、『四月以前の一年間未納がないとき』という条件に当てはまりません。残念ながら障害年金は請求できないことになります」と説明がありました。
                                     
前年5月        1月(就職)    4月(前々月)      
国民年金
未納
厚生年金
4か月


6/27

6/28
初診日
6/30
保険料
納付
*初診日の前日までに保険料を納付した分は期間に算入される-   
*初診日以降に保険料納付した分は未納扱いとなる(期間算入されない)

私は、「滞納した保険料は納付期限の六月三十日に一年六か月分を一括納付しているはず」だと食い下がりました。
しかし、担当者は、「初診日が六月二八日ですので、六月三十日に納めているのは六月二八日前日までの納付したものでありませんので未納として取り扱うことになります」と言われてしまったのです。
その説明を聞いて、私は全身に電気が回るようなショックをうけました。
和郎さんから旅行から帰った日の十五日に国民年金保険料を預かって、翌日に銀行納付するよう言われていたのです。
私は、家事が忙しかったこともあり六月三十日に納付してしまったのです。
そのことがネックとなり、保険料納付要件を満たしていないと判定されてしまいました。
そのため、あなたに障害厚生年金が一生受給できない羽目となってしまいました。
毎月二十万円程度一生涯貰えると思われていたのに私の浅はかな考えから保険料の納付する時期が遅れてしまって貰えなくなってしまったのです。
本当に和郎さんには、取り返しのつかない重大なミスをしでかし、面目なくお詫びのすべもありません。
私は、自分自身のいたらない行動を責めました。しかし、自分を責めてもどうしょうもないのです。本当に、本当にごめんなさい。そのとき私は決心しました。
和郎さんを死ぬまで生活が困らないように一生面倒見ようと決意いたしました。それにもかかわらず世の中は非常です。私たち夫婦を見捨てようとしているのです。
私は、あなたとの約束を果たすことができないことが判り絶望的になりました。同じことをいうようですが私が死んでいくことは世の中のさだめで仕方がないことです。
しかし、和郎さんの世話が出来なくなるということは耐えられません。
和郎さんを残して死んでいくなんて、神様はなんと非常な仕打ちをするのかと。何日も何日も泣きました。しかし、いくら泣いてもどうしょうもありません。私が先立つことになりごめんなさい。
ただ、泣いてばかりいるだけで解決出来るものでありません。和郎さんの今後の生活が成り立つよう考えるのは最後の私の務めです。生命保険は和郎さん受取人指定で加入していますので受けられると思います。
また、預金通帳を同封しておきますので名義変更して使ってください。尚、子供達にも別に積み立てをしているのでそれを渡してください。





(続く)