2013年6月4日火曜日

年金小説 『お誕生日まで待って』   (四)

(四)
それは昨年の春ことであった。
節子は半年ほど前から、胸に違和感があり、 微熱と貧血の状態が続き、その上、全身がだるくて、食欲がでない状態が続いていた。
ひそかに胃腸薬と鎮痛剤を薬局から購入して飲んでいたが、一向に改善が見られなかった。
そのような症状に気にはなっていたが、仕事と家事ともに忙しかったこともあり病院への受診は後回しになっていた。
そのような体調にはあったにもかかわらず、私には告げられず、また、家族の誰もがそのような状態にあることに全く気づかなかった。
節子の体調異常について判ったのは、去年の四月の中頃のことであった。
この度、次女の美紀の婚約が決まり、来年の春に挙式をすることにまったが、最後の家族旅行をゴールデンウィークにしょうと計画していた。
仕事から帰ってきた節子に旅行のことを話しかけたとき、「ごめん。この度の旅行はよそうと思うの……」と申し訳なさそうにつぶやいた。
和郎は、予想外の話に驚いてその訳をたずねた。
「折角、娘との旅行を楽しみにしていたのにどうしたの。何か都合がつかないことができたの」
彼女は、「ごめんなさい。半年ほど前から身体がだるい状態が続いているの、また、胸にも圧迫感があるのよ」と訴えた。
 和郎は、「それは大変だ、明日でも駅前のクリニックに診てもらったらどうか」
と私は安心させるよう明るく促した。
そこで、翌日、彼女は駅前にあるクリニックを受診したところ、乳がんの疑いと診断され、AB大学附属病院の紹介をされた。 
そこで、翌週の月曜日にAB大学附属病院で受診してCT検査や骨シンチグラフィ検査、血液検査などを受けたのであった。
三日目に検査結果が判り、和郎を同行して担当医師からの病状の説明を受けた。 
「残念ながら乳がんであることは間違いありません。症状はかなり進んでいます。既にリンパ、骨に転移していますので手術は難しい状態です。当面は、放射線、抗がん剤の投与の治療をしましょう」と告げられた。
翌週から入院して、放射線療法および抗がん剤治療を三ヶ月間続けたが 、ガンの縮小は見られなかった。 
その上、強い抗がん剤の副作用から吐き気が全身の倦怠感の状態が続き、身体のあちらこちらに痛みが見られるようになった。
八月の初めに主治医から和郎と節子に対し病状とこれからの治療方針についての説明があった。
 「放射線、抗がん剤治療を続けましたがガンの縮小は見られていません。このまま治療を続けても回復の見込みは非常に薄いです」と残念そうに述べた。
「先生、本当に直る見込みがないのですか。なんとかお願いします」と和郎は必死に懇願した。
「誠に残念ですか、根本的な治療法はなくなりました。このままだとあと四~六カ月程度と考えられます。旅行するとか何か好きなことを今のうちにされたらどうですか」と勧められた。
そのことは和郎夫婦には大変ショックなことであった。
怒りをぶちまけるところもなく、絶望感にさいなまれ、このような状況を受け入れることは夫婦にとって到底できないことであった。
このような事態に直面した彼女にとって心の整理をするのに大変な時間を要することとなった。それでも、現実を受け入れるしか方法がなかった。
彼女は、家族の暖かい見守りや親しい友人の励ましをもらっているうちに、死への恐怖心や心の不安感が鎮められ、少しずつ落ち着きを取り戻していった。
「好きなこと何でもしなさい」との医師の助言もあり、節子は元気なときに家族と一泊旅行をしたり、友人と美術館めぐりをしたり、昔から嗜んでいた川柳の句会に頻繁に顔を出したりした。
病院に入院することになってからも、身体だるくて、体重がどんどん落ちてきて疲れが出ていたが、節子は残された人生を楽しむように好きな本を読んだり、川柳を作ったり、友人との電話の会話を楽しんだ。
また、病院に入院中も家族の誕生会は特に楽しみにしていた。結婚して以来続けていた誕生会の日は、病院内のレストランで食事をし、たわいのない会話を楽しみ、プレゼント交換し、和気藹々の時間を過ごした。
 そして、子供達は余り永く生きられないことを知ってからそれぞれがすばらしいプレゼントを彼女にもたらした。
長女の由紀は、かわいい初孫の男児が十二月に誕生して彼女の喜こばせた。その喜びは尋常ではなかった。私の生まれ変わりだとはしゃいで、孫の名前を節子の『節』をとって節夫と命名する始末であった。
また、次女の美紀は、来年五月の結婚式の予定を繰上げて十二月の上旬に挙式を執り行い、晴れの花嫁姿を彼女にみせて安心させた。
長男の正郎は、彼女が勤めていた外資系生命保険会社に就職が決まり四月から社会人として働くことになり、 親としての責任は世間並みに果たせられたといって喜んだ。
節子は、永く生きられないと判ってからも、最後まで治療はあきらめず、治療効果があると聞いた療法は何でも試みた。
医師には、少しでも永く生きられる延命方法があれば試みてくれるよういつも懇願するのであった。
しかし、症状は眼に見えて悪化する一方であった。吐き気が続き、身体だるくて疲れやすくなり何も手につかない状態となった。体重も減少する一方で、食欲がなくなり、骨転移した箇所の痛みを訴えたり、歩行した時に痛みが酷くなると訴えた。
また、眠れないとよく訴え、ペイン・コントロール(疼痛管理)を医師が試みてもらったが完全に痛みはとれなかった。
それでも、何とか生きようとする気力は衰えていなかった。
そのような様子を見て子供達は、「かわいそうに、そこまで苦しい目にあわさなくても、なんとかしてあげて……」と泣きそうになりながら私に訴えた。
医師から余命六ヶ月程度と言われていたが彼女のがんばりもあり、宣告されてから八ヶ月経過し、桜の時期を迎えた。
和郎の誕生日は四月四日であったが、その日の病院内で恒例の誕生会を開いた。病室の窓から満開に咲き誇っているソメイヨシノが見えた。
由紀、美紀の夫婦と孫の節夫、それから長男がそれぞれ病室に食事を持ち寄って誕生会を開いた。
その日の節子は、病人とは思えぬぐらい明るく元気にふるまった。
 病人とは思えぬぐらい食べて、茶目っけのある会話で皆を笑わせ、いつの間にかプレゼントを用意し、病室で歌を全員で合唱し、和気藹々の時間を過ごしたのであった。 
その翌日、彼女から和郎に大きな封筒を手渡された。
「この封筒は私が死んでから開封してね」と明るい顔して手渡した。
和郎も明るい声で、「分かったよ」と一言だけ応えた。
医師からは、「寿命はあまり永く残っていません」と宣告されていたがその気配をみせないように振舞った。
それから二週間して節子は静かに息を引き取った。家族にとってかけがえのない節子がこの世の中から消えてしまったのだ。
その日は、病院内にある庭のソメイヨシノは散ってしまい辺り一面をピンクで埋め尽くされていた。




(続く)

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