2013年6月4日火曜日

年金小説 『お誕生日まで待って』   (三)

(三)
そのことがあってから二週間後の早朝ことである。
朝食をとっていた和郎は、突然右半身がしびれて意識を喪失した。
傍にいた節子がその様子に気づき救急車を要請のため電話を架け、十分後に救急車が到着し救命救急病院に搬送された。

MRI検査等の結果、脳梗塞と診断されたが、医師の適切な処置により幸い命はとり止めた。
しかし、和郎の意識が目覚めたときには右側の上半身と下半身が不自由な身となり、右手はほとんど動かず、歩行も困難な状態となっていた。
「こんなことになったのは、私が無理に飲食店を辞めさせて慣れない職場で働かせたからだわ。私のせいだわ、ごめんなさい、ごめんなさい」と彼女は病室で自分を何度も責めるのであった。

入院してから六ヶ月目に病院でのリハビリテーションが終了した。
しかし、右上下肢の麻痺の改善はほとんど見られず、右腕はほとんど動かず、歩行も不自由で外出時は車椅子で移動する状態になった。
医師から、「症状固定しておりこれ以上の治療やリハビリテーションを続けても改善しない」と言われたため和郎は退院した。

退院時に病院のソーシャルワーカーから夫婦に対し、「右半身が不自由で、働けない状態ですので多分障害年金が貰えると思いますよ。社会保険事務所に行かれて相談されたらどうですか」とアドバイスをもらった。
その話を聞いたとき、今後の生活のことに不安をもっていた和郎にとって、福の神が舞い込んできたように思った。

彼女は、早速、JRの駅から歩いて五分のところにある社会保険事務所に喜び勇んで出向いた。しかし、それは彼女の期待を裏切るものであった。
窓口の相談員は、年金の加入納付記録をコンピューターから引き出してそれを見ながら節子に言ったのだ。

「目黒さん、残念ながら障害年金は貰えませんよ。何故なら、国民年金保険料の滞納が大変多く、法律で規定している保険料の納付状態には足りておりません。したがって、誠に残念ですが障害年金の受給の資格はありませんよ」との説明聞いた節子はガックリ肩を落として自宅に戻ってきた。

彼女は、もらえるとしたら月二十万円程度と聞いていたのに貰えないと判ったときの落胆振りは大きく、眼を覆うばかりで一週間寝込む状態であった。
 「障害年金が貰えなくなったのは私のせいだわ、ごめんなさい、ごめんなさい」と訳もなく顔を真っ赤にして彼女は嘆き悲しむのであった。

和郎は、肩を落としてしょんぼりしている彼女に対しやさしく、
「節子は何も悪くないよ、障害者になったのに支給しないという制度が悪いのだ」と何度もなだめた。しかし、節子にはずっと寝ていられるような余裕はなかった。

入院中の医療費の支払で蓄えも底をついており、おまけに由紀(十二歳)、美紀(九歳)、正郎(七歳)の三人の子供と肢体不自由な和郎を抱えて、生活をしていかなければないという切羽詰った状態であった。

和郎が倒れてしまい収入の路が途絶えて何とかしないと家族の生活が出来ないところまで節子は追い詰められた。しかし、世間はこの家族を見捨てることはしなかった。
まじめ一筋で生きてきた夫婦に救いの手を差しのべてくれたのだ。

それは、和郎の退職届を提出するため、節子が生命保険会社に出向いたときのことである。
面談した営業所長は、和郎が病気のため勤務できなくなったことをねぎらいながら彼女に次の提案をした。
「奥さん当社で働いてくれる適当な方を知りませんか。もし良かったら、ご主人の代わりに働いてみる気持ちはありませんか。外務員の空があるのでぜひとも奥さん働いてくださいよ」と促された。

彼女は、「今のお話は夫に相談した上でご連絡させていただきたいと思います。ご返事についてはしばらくお待ちくださいませんか」と言って帰ってきた。
小雪ちらつく中を興奮した表情で自宅に戻ってきた彼女は、所長からの申し出があったことを和郎に説明をし、「私、生保で働こうと思うの。いいでしょう。子供たちの世話であなたに迷惑をかけることになりますがお願い……」と懇願した。

それを聞いた和郎は節子の手を取り、「節子を働かせることになり本当に申し訳ない。苦労をかけることになるが子供たちのためにがんばってもらえないか」
それに対して彼女は満面の笑顔で、「ええ、あなたと子供達とのためにもがんばるわ」と和郎の手をきつく握り締めた。

彼女は、翌月より生命保険の営業社員として働くことになったが、時間的にも身体的にも大きな負担を強いることとなったのにかかわらず一言の愚痴もこぼさず生き生きと毎日勤めた。
右半身不自由の私と三人の子供の世話しながら、生活の糧を得るため夜遅くまで働いた。

三人の子供達はある程度の家庭のことは手伝ってくれたが、仕事をしながら家に帰れば諸々の家事をこなした。
近所つきあいから毎日の買い物や料理をこなし、その上、和郎の入浴の世話および通院や散歩時の付き添い、学校の行事の出席等の家事をこなした。
仕事から遅く戻って疲れているはずなのに、いやな顔はみせず、「遅くなってごめんね、十分に世話ができずごめんね……」といつもすまそうに和郎に言った。また、

「大事なお父ちゃんの世話は一生私が看るからね」とかわいいことを言ってくれた。
和郎は、「働きもんでこんなに出来た女房は、世界中さがしてもいない」といつも思っていた。
 また、職場での節子のがんばりはたいした者で、業務成績は営業所内ではいつもトップの位置を示していた。 

おかげで、収入面で困らない程度の生活が出来るようになり、三人の子供には経済的に不自由をさせない程度のことができるようになった。 
三人の子供を大学で教育を受けさせることもできた。

そして二年前に長女の由紀が職場結婚したときは、結婚資金のほとんどを節子が負担したのであった。
また、次女の美紀および長男の正郎のためにも結婚資金をがっちりと貯めることができた。
子供も成長し、次女は商事会社に勤務、長男も大学四回生となり手がかからなくなり、順風満帆でこれからは無理しないで老後の生活をしていけると思われた矢先に、節子のもとに突然不幸がおとずれたのだ。




(続く)

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